
登録有形文化財 村松家住宅保存修理事業
M家住宅 / 2008
私が村松家と関わるようになったのは、平成12年のまだ肌寒い春、某国営TV放送において山梨における近代遺産建造物の放映をご覧になられていた村松家三女様よりお電話を戴いてからです。「道路拡張のためお蔵が無くなってしまうの・・・」と相談をいただきました。民家再生のブームの中、いち早く再生業者がお客を連れ何回か訪れ、お蔵の古材を売ってその資金で主屋を再生することを進められたそうです。ですが、単に古民家再生ではなく、お蔵を遺したいとの主旨の違いを曲げなかった主。どうして遺したいのか人それぞれですが、村松家の四姉妹たちは私たちの生きてきた時間を遺したいとのことでした。
国の登録有形文化財の指定
蔵や土地の収用は押し迫っていました。国への登録有形文化財指定と数々の関係者のお手を煩わせました。中でも、文化庁、山梨県の文化財審議委員、南アルプス市(旧櫛形町)教育委員会や町の審議委員方々、国や町の用地官等大変なご協力を賜りました。また修理保存の技術指導や修景方法は(財)文化財建造物保存技術者協会に直接ご指導を仰ぎ適切な助言をただきました。古図や文献、駿信街道(現国道52号線)と村松家や地域の近代に関しての資料集め分析を行い、平成15年1月31日付け、国の登録有形文化財の指定(以下記載)となりました。
- ・登録番号19-0041号 村松家住宅主屋 一棟 木造2階建、瓦葺、建築面積229㎡、中潜り門及び門塀付
- ・登録番号19-0042号 村松家住宅商家蔵 一棟 土蔵造2階建、瓦葺、建築面積83㎡、
- ・登録番号19-0043号 村松家住宅文庫蔵 一棟 土蔵造2階建、瓦葺、建築面積22㎡、
- ・登録番号19-0044号 村松家住宅厠 一棟 木造平屋建、瓦葺、建築面積5.5㎡、


商家蔵曳き屋・改修前

商家蔵曳き屋・改修後
基本設計
主屋、商家蔵、の基本設計を進めるにあたり、それぞれの実測調査、調査図を改修と同時に記録、分析、検討し、仕様書作成、実施設計に反映するべく、幾度と無くフィードバックしては時間とエネルギーを費やしました。幕末、明治初期における無名なこの地域の請負師(建築家)、棟梁、職人集団等が、ポスト洋風化建築に携わる意識はどんなものであっただろうか?施主(儒医の村松健斎)の心意気に答えるべく、乗りに乗った知恵と汗が処々に現れています。現在そこに立ち会うことに恵まれ、後世にどう伝え遺せばよいのかを絶えず念頭に置き、実測調査、実施設計、工事監理、歴史的背景調査等に関らせていただきました。商家蔵に至っては、道路拡幅事業による解体はせず、曳家工事として敷地内移転を行う。主屋・商家蔵・文庫蔵・厠においては耐震補強の上改修工事となりました。また増築部には最新の住環境を確保するため水周りを集約しました。

主屋
主屋歴史的経緯の中で数回増改築、曵家をしています。現存している間取りは、この地域特有『田 の字型』プランの六間通しを原形として造り始めたのが、嘉永二年(1849年)以前。それ以後と見られるもう一つの平面図が残っているものは、それより成長して、八間通しの奥座敷、中座敷それぞれ10帖間としています。欅の大黒柱、小黒柱のスパンは1.5間の6帖の大戸口土間、大黒柱東にクド(カマド)があり現存していた二階の煙り抜き跡と一致。その後明治初期、北裏から現位置に曵家し1.5間継足して、12間通しとした大改造をしました。その時点で商蔵とは平家でつながっていた跡が残っています。このつなぎの土間空間を入れると15間通し(間口5スパン桁行3スパン)の大平面を形成。同時に一挙二階建てとして、両切り妻に装飾窓を二ケ所づつ付け、南側二階には漆喰のR枠開き窓がリズミカルに八ケ所設けられ、モダンな様相を醸し出してきたのでした。それから、主屋と店蔵との繋ぎの土間より、階段梯子を設けて土間より二階に上がるために、その下屋に3尺束を継ぎ足し、桁高を上げて立体的に使用可能な空間としました。これは養蚕業とそれ以外の何かの商売か、私塾か、に使われたようです。二階の架構造は軒高を揚げるため、大黒柱、恵比寿柱(小黒柱)の頭に母屋梁受けの水平梁を流し、束を省いた船底状の構造として出来た大空間はこのうえなく美しい。当時係った技術者、職人の知恵が近代化を支える背景として目を見張るものがあります。またこの村松家住宅の特筆すべき特徴でもある奥座敷、中座敷の壁仕様は、金箔(大山椒方三分~小石・方四分)壁や金糸、銀糸折込みの布壁仕上と、ラピスラズリ(瑠璃色の貴石)を擦り潰し、塗り込めた青い壁や、葉模様を浮かした左官塗り壁類は貴重な素材を使えた文化の高さが感ぜられます。また、間仕切り絵襖もこの家のために描かれたものであり、欄間、板戸、障子など伝統技術に裏打ちされたものとして残されています。玄関引き戸のカットガラスは神田神保町で経営していた頃の『Madchenメッチェン少女』の玄関引き戸を移設して使用しています。これは後に人間国宝級になったガラス職人が昭和9年頃仕上げたガラスと言い伝えられています。[中潜り門]は、中庭を座敷前に造り、屋敷の中での高貴な庭造りを意図した時代背景の遺産として残っています。

アーチ枠八窓
アーチ枠八窓はケヤキの木目描きをペイントで施す手の込んだ意匠表現をしています(これは国重要文化財・旧山梨郡役所明治18年・重要文化財「明治村」にも見られる)。アーチ枠西妻側開き戸は、意匠的にパネルシャッター「ドアー」としての使用目的(明治8年建立、国登録有形文化財・旧富岡敬明家住宅2階バルコニー)の扉に類似(擬洋風建築「藤村式建築」といわれる前の居留地住宅の影響として現存する住宅の中でも一、二番に古い洋風住宅スタイル)するものと、年代的には少し後になるが国重要文化財・旧東山梨郡役所「明治村」バルコニーのドアーにも類似しています。


金色の間
金色の間(奥座敷)は、畳床の床板はガガリ挽きのままの荒床であった。これは畳を上げて使用する他の部屋との違いが判ります。また、脇床前畳一枚おいて東より二枚目の角は炉が切られた痕跡があります。床の間の壁は、天平紙(雁皮ガンピ=「沈丁花科の落葉潅木」の皮の繊維の入った上質紙)を床に敷いて、上から2分〜4分の金箔を蒔き定着させてから、裏張りをして、仕上げてあります。袋戸棚襖絵は初代徽典館学頭・友野 霞舟の「霞舟漁隠」の雅号が残っています。部屋の壁は、綺羅(雲母を切り型紙に振り落とし)唐紙仕上げ。釘隠しの橘の実は、銅鍛造を黄金色(煮色着色技法)で色付けし、葉は黒漆の焼付けを2回塗りされ、裏当て材は銅の平板を黄金色(煮色着色技法)で色付けされ、深みのある輝きと黒漆の焼付けのコントラストは荘厳な高貴さを醸し出している。代々実がなる橙は母性原理の象徴「常世の神の依り代、橘」でありましょう。天井は、棹縁天井(高9尺)。これらのことから、金色の間として、当初から今日まで畳敷きの使われ方であり、仏教的な境地では、絶対の間として最高の格式です。それが空間のヒエラルキーを当初から狙った様式といえます。 山岡鉄舟扁額などもあり、幕末から明治にかけて画人文人が交流、滞在していました。



瑠璃の間
瑠璃の間(次の間)は、床板(とこいた)を鉋削り仕上げとしていました。畳床には炉の痕跡が二箇所あります。その炉は、床下で配管ダクトでつながっていた痕跡があります。一箇所で中央制御された暖房システムとして制御されていたようであるが、それは患者の検診や、薬の調剤の用に使用されたこととも思われます。又医家であることで、養蚕のウイルス対策や、温暖飼育のためか、定かではありません。壁は紺碧(ラピスラズリ)色。釘隠しは瑠璃鳥が二羽ツガイであり、銅の鍛造に金消し技法にて、金を胸に施し、煮色着色技法で色付けし、深みのある燻し状にしてあります。裏平板はニッケルメッキをされていました。これは金色の間の金に対して、瑠璃の間は銀の輝きと共に青色壁は清らかなイメージ。鮮やかな彩や、睦まじき瑠璃鳥の情愛に満ちたさえずりが聞こえるような、ふくよかさに包まれる雰囲気は、こころが癒されると共に、愉しさと自由な空に羽ばたく元気をいただけるような豊かな空間として演出されています。水墨襖絵は蕪城秋雪の作。




玄関土間より大黒柱を臨む。


2階広間。村松健斎さんの頃、2階を増築しました。やじろべえ式の柱梁を補強。
商家蔵
商家蔵は1階を8間×3.25間とし、土間、南店蔵、奥店蔵と3つの使われ方をしています。2階は8間×2.5間、それぞれ1階より箱階段で登ることが可能であり、中仕切り襖開戸(幅5尺)で行き来できる。小屋は和小屋組みの1.5尺の化粧曲がり梁を使用して土で塗り込められた屋根の重量を支えるに可能としています。垂木は3寸×2.2寸@1.2尺で5.6寸勾配の流れ9尺を持たせているが、垂木に反りがきている。基礎は石積み4~5段として、水害から護られるように床を揚げています。駿信往還入り口土間には8寸×6寸の欅の大黒柱に尺の框を差して土間から430ミリ上げた畳み床です。





外壁は仕上に白漆喰を腰壁には平瓦張りのナマコ壁。窓開口部は左官鏝の手さばき技術が施され、盗難避け鉄格子の跡があります。また蔵扉は主家側にある、かつては店蔵として使用している時期は、主屋とは離れた外部であったためか非常に堅牢に出来ています。主屋とつながれて、内部空間化されて後、その蔵扉としての機能が少しづつ薄れて、今では半分壁に塗り込められている、その造りは意匠的価値を見出せるものです。また、床下には煙草の収納室があると言われ、玉石が敷かれているとのことは、蔵造りの床下納まりの基本である土の下から侵入する鼠除けの工法が見られるのではないかと思われます。


文庫蔵
文庫蔵は3.5間×2.0間二階建て。置き屋根付きの土蔵造りです。基礎の高さからして、店蔵の用途とは完全に異なる使用目的で造られた。小屋組は登り梁形式で、地棟木に1.0尺角ものを通し妻側を登り梁として、二階の内部空間を有効に使用するための知恵と工夫が施されています。その上に土が塗り込められた層を造り、最上に置屋根の軒の出を4.0尺出し風雨、火災から漆喰壁の土蔵を護る置き屋根構造としています。これはたぶん正次郎翁のお気に入りのものであったと推測されます。極力開口部を少なくし、コンパクトな大きさとし、階段を無くして、二階を気密性良くし、また、入り口蔵扉は軽快な左官技の装飾と、大戸引き戸、障子が組み込まれ、堅牢、美しさ、居住性を満足した蔵です。学問を山岡鉄舟、谷干城など維新の主人公等に教えを請うた書を尊んだ翁の好みでありましょう。主家からは仲居8帖(現在仏間)から渡りの間を通り北に位置します。正次郎翁が晩年寝室として使用したと言われ、この屋敷配置になってからは山梨の村松家として実質の蔵の役割を果していたのはこの文庫蔵。時代の流れに添うように屋敷の中央に建物が集まってくる商売の形態の変化が読み取れます。つまり、この住宅には農機具入れのような納屋は存在しなく、農+酒造⇨農商酒+医⇨両替商⇨銀行⇨投資会社⇨政財界⇨へと歩む過程が建築の変遷として記憶されているのです。


厠は、木造平家建て瓦葺き6.0尺×10.0尺の腰壁下見板張り矢羽根押し縁押さえの完成度の高い建築として今回併記しておきます。[中潜り門]は、中庭を座敷前に造り、屋敷の中での高貴な庭造りを意図した時代背景の遺産として残ります。





増築・改修部 洗面所のステインドグラスは昭和初期に村松重雄が神田神保町に開業した、レストランMadchen(メッチェン)に使われていたものです。

